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安倍首相 靖国参拝 賛成

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安倍首相が、政権発足1年を期に靖国参拝を行ったことが国内外で波紋を呼んでいる。Yahooの意識調査で8割近くが「妥当」と回答したことが報じられている一方、マスメディアの反応は批判的なものが目に付く。

閣僚が参拝するといつも騒がれる「靖国参拝」という問題は一体何が問題なのか。

靖国問題の本質は以下の3点に集約されると考えられる。
①軍国主義のもとに侵略戦争を行った日本とそれに巻き込まれた関連諸国との問題
②国家及び公共団体が宗教活動を行うことについての違憲性に関する問題
③宗教的、哲学的にその意味を問う問題

靖国参拝については多様な考え方、捉え方があると思うが、靖国には誰がどういった意味で祀られているのか、誰が参拝したのかがその問題の中心である。そのことが先に挙げた3点について参照したときに妥当であるのかどうかということに尽きる。

①について考えてみよう。靖国は戦時中、軍国主義を徹底させ国家を挙げて侵略戦争に向かわせる精神的支柱にならざるを得なかったという歴史的事実がある。このことは諸外国から見たとき、靖国は侵略戦争、軍国主義日本の象徴として捉えられる。そこへ閣僚が参拝するということで、日本政府は過去の侵略戦争を肯定する立場を容認しているのではないかという議論になるのである。戦没者が合祀されている靖国だが、そこへ参拝するということは犠牲者の鎮魂、平和への願いというものがあるにせよ、とりわけ閣僚などが参拝者の場合にはそうした主観的意図を超えたところに問題の本質が存在しているということを忘れてはならない。

②についてはどうだろうか、「国および国の機関はいかなる宗教的活動もしてはならない」と定めた憲法第二〇条に違反するという判決が過去に下されている。その根拠は、国家や公共団体が靖国に参拝することは靖国が「特別な何か」という印象を一般に与えかねないという議論である。

③関して、たとえば古山高麗雄は「死ねば、靖国も何もない。無です。招魂も追悼も葬式も生者の営みです。死者には何もない、霊などというものは、生者が生者のために作った観念だ」と述べている。宗教や、哲学は誰でも自由に築き上げられる思索の世界である。それを何かの手段として用いるというのは傲慢であろう。というのも、ここまで言うと言い過ぎかもしれないが、今回の安倍首相の靖国参拝は、うがった見方をすると、国内の支持率の地固めを狙った行為とも思われるのである。

こうしてみてみると靖国参拝という問題は形而上的問題ではなく現実的問題、また主観的問題ではなく客観的問題、更には国内的問題ではなく国際的問題として議論されるべき問題である。重要なことは、戦争の犠牲者に対して生者がなすべきことは,国内外を問わず、先の戦争で亡くなった人たちの家族への謝罪とできるだけの補償を手当し、死者の魂はやすらかにそっと静かにしておくことではないだろうか。



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