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2013年の出来事 ベスト10

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2013年に起こった出来事の中で、2件の体罰に関わる事件が思い出される。

一つ目は、大阪市立桜宮高校のバスケットボール部キャプテンの2年男子生徒が同部顧問から体罰を受けた翌日に自殺した事件。小村被告は2012年12月、満足できるプレーができなかったとして、試合の休憩時間や終了後に男子生徒の顔などを平手で十数回殴打し、全治3週間の傷を負わせた。男子生徒は体罰を苦にして自殺した。傷害と暴行の罪に問われていた元教諭小村基被告(懲戒免職)に対し、大阪地方裁判所は9月26日、懲役1年、執行猶予3年の判決を言い渡した。

もう一件は、柔道の女子選手15人が監督から暴力を受けたなどとして日本オリンピック委員会に告発したことが発覚、その後監督が辞任したという事件。暴力の内容としては、竹刀で叩く、頭部、顔面への平手打ち、また「お前なんか柔道やってなかったら、ただのブタだ」、「死ね」などといった暴言もあったと報道されている。

報道番組では、意識調査の結果、場合によっては体罰は容認できるとする意見が大勢を占めたことが公表された。また、あるコメンテーターからは、双方に信頼関係があれば体罰もありといった意見も聞かれた。

ここでは体罰とはどんなものなのか少し考えてみたい。

まず、法律上は体罰とは教育指導上の目的で行使される点で暴力と区別されているが、そのような区分は現実場面では役に立たないということは言うまでもない。外見的には誰も判断しかねるからである。みなさんは、教育上であれ何であれ心から信頼している指導者から平手打ちを食らったことがあるだろうか。

人間の信頼関係とは本質的に相手の置かれている状況を心から共感するということがその基礎にある。つまり、興味や関心は相手側にある。一方、体罰に手を染める側の心理として、自分のことにしか関心がないということが言える。したがって、信頼関係のあるところに体罰はないということである。

ここで体罰というのは、あくまでも先にあげた報道内容にあるような暴力的行為のことで、たとえば、バケツを持って立たせるとか、グラウンドを走らせるといったことは体罰ではないと定義した上での議論である。

体罰を行う側にはどうしても自分に自信がないという心理的事情がある。理想とする自分には程遠い自分に劣等感を持っている。つまり、たとえばチームをまとめ、メンバーからは指導者として尊敬され、業績を上げたいという理想の自我像がある。しかし、現実にはそうではない自分を認めたくない。そこで、相手を非難することでその心の葛藤を埋め合わせようとしているのである。こうした相手への非難はしだいにエスカレートしていき、ついに体罰という暴力行為に至るのである。

このように、体罰とはそれを行う側の心理的問題なので、その対象に選ばれるのは生真面目で従順な、いわゆるいじめやすい人である。そして、相手にとてつもなくハードルの高い目標の達成を要求し、深く反省し罪悪感を抱くまでしつこく繰り返されるのである。実際に、女子柔道の事件ではある特定の人物がその対象の中心であったし、桜宮高校の事件では最終的に自殺にまで追い込まれている。

体罰を行う側は、いたらない相手をわからせるために身体に叩き込むのだという理屈でその行為を正当化している。しかし、体罰の本質はそれを行使する側の劣等感、自信のなさである。それが正義や愛情という仮面の下に正当化されるのである。


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